コレクションCollection

恒久展示

瀧口修造コレクションについて

アーティスト

瀧口 修造Shuzo Takiguchi(1903~1979)

富山県に生まれ、東京都で没。詩人であり、戦後日本で最も影響力のあった美術批評家の一人です。慶應義塾大学に在学中の1920年代後半にシュルレアリスムに深く影響を受けました。シュルレアリスムとは、無意識や夢、偶然を芸術の主題とし、現実や意識から個人を解放する芸術思潮で、フランスの詩人、アンドレ・ブルトンが主唱しました。
瀧口はいち早くシュルレアリスム風の試作を試み、日本における最初のシュルレアリスム詩人の一人であると言われています。また1930年にブルトン著の『シュルレアリスムと絵画』を翻訳するなど、瀧口は日本におけるシュルレアリスムの普及にも貢献しました。1940年にシュルレアリスムの中心的な画家、ジョアン・ミロの書物を著します。これは、スペインの巨匠を解説した世界で最初の本です。
日本が第二次世界大戦に向かう中、危険思想として芸術家の活動や表現が抑圧され始め、戦時中の瀧口は戦争終了まで警察から活動を厳しく監視されることになります。
第二次世界大戦後、瀧口は、美術や音楽、舞踊といった様々な分野の、まだ名声を得ていない若い芸術家と積極的に親交を結びます。荒川修作や河原温、草間彌生といった若手美術家の、新しい表現に対して数多くの論評を執筆し、擁護します。
また外国の美術家とも共同して創作に取り組みました。例えば、ミロとの共同制作で2冊の詩画集(画はミロ、詩は瀧口)を出版しました。さらに瀧口が監修した『マルセル・デュシャン語録』(1968年刊)にはデュシャン本人、ジャン・ティンゲリー、ジャスパー・ジョーンズが作品を寄せています。
1970年代後半、富山県が美術館創設の計画を立て、美術の専門家として瀧口に相談を持ちかけました。当館の前身、富山県立近代美術館が20世紀美術に焦点を絞り活動してきたのはその時の瀧口の助言によります。死後、彼の書斎に残された絵画、版画、オブジェや玩具、石、貝がらなど、約700点から成る瀧口修造コレクションが未亡人から寄贈されました。

「書斎の瀧口修造夫妻」撮影:大辻清司

展示の入れ替えについて

瀧口修造コレクションは、時期により展示の入れ替えを行っています。
現在の展示の詳細についてはこちらをご覧ください。

シモン・ゴールドベルク コレクションについて

アーティスト

シモン・ゴールドベルクSzymon Goldberg(1909~1993)

山根美代子Miyoko Yamane(1939~2006)

2006年、故シモン・ゴールドベルク夫人でピアニストの山根美代子さんから、夫が愛蔵していた美術品の寄贈を受けました。油絵4点、水彩・ドローイング4点、彫刻3点、版画6点、椅子2脚、計19点です。このコレクションはゴールドベルクの生き様を色濃く映し出した貴重なものです。
ゴールドベルクは、フルトヴェングラーに請われ弱冠19歳で世界屈指の名門ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターに抜擢されました。前途洋々の天才ヴァイオリニストに悲劇が忍び寄ります。ナチスの台頭です。彼はポーランド生まれのユダヤ人でした。国籍と民族を理由にベルリン・フィルを退団せざるを得なくなったばかりでなく、ナチスの支配下で家族はことごとく強制収容所に送られました。ゴールドベルクは九死に一生を得ますが、戦後再会を果たせた親族はごくわずかだったそうです。
1948年アメリカに渡り、音楽活動を再開するとともに、一流の音楽家になるためにはさまざまな芸術を滋養として人間性を高めなければいけないという信条から、少しずつ身の回りに美術品を置くようになったそうです。
ケーテ・コルヴィッツ、パウル・クレー、ミース・ファン・デル・ローエ、ハンス・ライヘル、カール・ラブス、ベルベルト・バイヤー――コレクションにはドイツ語圏の美術家の名が多く見受けられます。彼らは総じて信念を曲げず時勢に反抗したために、ナチスによって故国を追われたり活動の拠点を失ったりした人々でした。ゴールドベルクは、彼らと精神的同志として連帯しているとの思いを抱いていたのではないでしょうか。
ゴールドベルクは戦争によって癒すことなどできない過酷な運命を背負いました。夫妻からの贈物には、反戦と平和への思いも込められているのです。

「シモン・ゴールドベルクと美代子夫人」
photo by Evelyn Hoffer

展示の入れ替えについて

シモン・ゴールドベルク コレクションは、時期により展示の入れ替えを行っています。
現在の展示についてはこちらをご覧ください。