コレクションについて
富山県美術館では、20世紀初頭から現在に至る美術の流れを、
世界・日本・富山の3つの視点から展望する意欲的な活動を展開しています。
▼ 富山県美術館 紀要
代表的な作品紹介
世界の20世紀美術
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
「マンジの肖像」(1901年)
亡くなる直前に描かれた最晩年の作品です。モデルは、ロートレックの才能を信じ、ほれ込み、精神的にも経済的にも支え続けた人物マンジです。美術品収集家で、当時の前衛画家を支援した画商でした。ロートレックが信頼し尊敬していた友人でもあります。一見、未完成のように見えますが、シャープな筆致によりモデルを的確に捉えています。
© 2024 – Succession Pablo Picasso – BCF(JAPAN)
パブロ・ピカソ
「肘かけ椅子の女」(1923年)
グレートーンの落ち着いた色調で、椅子に座った女性が洗練された線描と柔らかな陰影で描かれています。優しい女性の表情が印象的な作品です。ピカソは幼少の頃から卓越したデッサン力をもつ優れた画家であり、その基礎が十分備わったうえでの洒脱な筆使いが冴える作品です。ピカソが結婚や愛する長男の誕生を経験し、画家としての評価も高まった、幸福に満ちていた時期の作品です。
© Successió Miró / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2024 G3495
ジョアン・ミロ
「パイプを吸う男」(1925年)
1925年、32歳のミロがパリでも制作を始めた頃の作品です。ミロ自身が「私の夢の色」と呼んだ青や水色の背景のシリーズの1点です。
自由でユーモラスな雰囲気が漂うミロの作品は、よく子供が描く絵に例えられます。しかし、ミロが目指したのは色、形、描線を入念に構成することを通して、自身の中にあるイメージを視覚化していくことでした。即興的に見えるこの作品にも、下絵があることが確認されています。ミロは人の姿を抽象化しようとしたのではなく、自身の中から生まれた様々な抽象形態を構成していった結果、パイプを吸う男の像となったと言えるでしょう。
抽象的な絵画を目指しながらも、ミロは自然への親しみと愛情を作品に込めていました。ミロの「夢の色」である水色は、故郷であるバルセロナの青空や海の色なのかもしれません。
ジャクスン・ポロック
「無題」(1946年)
床に広げたキャンバスに降り注がれる(ドリッピング/ポーリング)絵具の、無数の線の絡まりによって制作されています。その結果、作品は対象の形やイメージを再現する従来の絵画とは異なり、作者の身体運動の痕跡そのものとなっています。具象的作品から一転して、ドリッピング/ポーリング技法を試み始めた重要な転換期の作品です。
Lying Figure, 1977 [CR 77-07] © The Estate of Francis Bacon. All rights reserved. DACS & JASPAR 2024 G3495
フランシス・ベーコン
「横たわる人物」(1977年)
裸の男がテーブルの上に横たわっています。テーブルの脚は獣の足です。床には獣の影が見えるでしょう。角のある牡牛でしょうか。男の背後に凹面鏡があり、男の後姿が映りこんでいます。男の前には、白い紙のようなものがあり、文字がバラバラになっています。
タテ長の画面ですが、全体は円が支配しています。円形と牡牛から、闘牛場を連想できるでしょう。モデルはフランスの詩人で民俗学者のミシェル・レリス(1901~1990)。エロスと死をめぐる闘牛を論じた著作があります。
画面を支配している色はオレンジ色と水色です。聞く分にはさわやかなイメージですが、実際は少し黒色を混ぜたせいで不気味な印象を与えます。さらに表面のざらつきが不愉快さを増長させます。文字=ロゴスの解体と喪失によって、血と肉の人間の獣性を示唆しているのでしょうか。
作品保護のアクリル板には、作品を見るあなた自身が写り込みます。あなたもまた絵の一部なのです。反射するアクリル板の使用もまたベーコンの指定です。
日本の20世紀美術
棟方志功
「二菩薩釈迦十大弟子」(1939年)
本作品は、1955年サンパウロ・ビエンナーレにおいて大賞を、翌1956年にはヴェネチア・ビエンナーレで国際版画大賞を受賞した作品であり、棟方の名を世界に知らしめた初期の代表作です。
十大弟子とは釈迦の弟子の中で特に優れた10名のことです。等身大の版画を制作してみたいと考えていた棟方は、上野の博物館で興福寺の、中でも須菩提像に強い感銘を受け、十大弟子に取り組むことを決めました。構想にふさわしいサイズの版木を入手しましたが、90㎝をこえる版画は例がなく、前代未聞の試みでした。しかもこの時の棟方は、釈迦十大弟子について深い知識は全くなく、ただ一心不乱に彫り進め、わずか1週間で仕上げてしまいました。
作品が完成した後、棟方が改めて資料を詳しく調べたところ、弟子一人一人の表情と人となりが全てぴたりと一致、その不可思議に棟方自身が一番驚いたほどでした。
棟方は当初、これを六曲一双の屏風にするつもりでしたが、そうすると十人では左右一面ずつ余ってしまうことに気づき、急遽両端に普賢・文殊の二菩薩が加えられました。こうして弟子たちが生き生きと会話し、それを菩薩が見守っているような人間味あふれる作品が生まれました。
ポスター
永井一正
「JAPAN」(1988年)
緻密で幾何学的な曲線が織りなすパターンと鮮やかな色彩の共鳴により、永井は自身が抱く宇宙と生命への深い洞察と愛情を伝えてきました。縁起の良い生き物である亀をモチーフとした、緻密な線と色彩による絢爛なデザインは、言葉を超えたポスターという視覚のメディアを通して、「JAPAN」の美しさ、自然と深く関わりながら育まれた文化を伝えています。永井は、富山県美術館の前身である富山県立近代美術館で、1981年の開館から2016年12月の閉館までの企画展ポスターを、そして富山県美術館ではロゴマークのデザインを手掛けています。
亀倉雄策
「東京オリンピック(第2号)」(1962年)
1959年に東京オリンピックの開催が決定したとき、日本の組織委員会は開催に向けて「デザイン懇談会」を組織し、亀倉をはじめとする10名のデザイナーや評論家が、東京で開催されるオリンピックに関わるデザインに臨みました。日本的な要素を加味した国際性のあるデザインを一丸となって目指すなか、採用された亀倉のシンボルマークは日本でのオリンピック開催を強くシンプルに伝えるものでした。フォトディレクションは、村越襄によるものです。躍動感とともにファインダーに納まった選手のフォームは、亀倉がこのポスターの造形要素として、入念に選び抜いた写真であることを伺わせます。
・フォトディレクション:村越襄
・フォト :早崎治
椅子
ヘリット・トマス・リートフェルト
「レッド・アンド・ブルー」(1918-23年 製造:1990年代)
オランダの家具職人として出発したリートフェルトが、この椅子を制作・発表したのは1918年です。既成品の板と角材を効率的に用いて、座り心地の良い椅子を目指すなかで生まれた椅子の造形は、同じオランダで起こっていた造形運動デ・ステイル、その垂直と水平を基調とした造形運動と共鳴するものでした。最初は着色されてない木の椅子でしたが、デ・ステイルのメンバーであった画家モンドリアンらの助言で、赤や青の着色が施されたのです。誕生した《レッド・アンド・ブルー》は、まさにアートとデザインのつながりから生まれた名作です。
倉俣史朗
「ミス・ブランチ」(1988年)
倉俣は工業的な素材を用いながら、時代へのアイロニーと詩情をたたえたデザインで、1970~80年代を中心に世界的な注目を集めたデザイナーです。この透明なアクリル製の椅子の名前は、戯曲「欲望という名の電車」の主人公の女性であるブランチ・デュボアから、封入された造花のバラは作中で彼女が着ているドレスの模様に由来します。透明なアクリルを用いることで、倉俣は椅子の量感を軽やかさに変えるとともに、椅子という造形や機能への問いかけのように、椅子の形そのものを消し去ろうとしたのでしょう。そのなかで宙を舞うような造花のバラが、この椅子を捧げられた女性の気配だけを伝えているようです。